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コレクションの町 柏崎

コレクションの町 柏崎

 柏崎はコレクションの「まち」として有名です。かつて「七大コレクション」と呼ばれる収集品がありました。

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 痴娯の家岩下庄司の郷土玩具。黒船館吉田正太郎の文明開化資料。光楽平田誠二郎の漆器、蒔絵。無暦庵内山松次郎の古銭。戯魚堂桑山太市朗の古書、古手紙。小竹忠三郎の絵葉書。新道屋曽田市蔵の大黒天です。加えて柏崎出身トンチ教室生徒石黒敬七の世界の珍品、奇品(旧トンチン館)もありました。彼らはそろって明治20年代、30年代生まれで、商家の出身が多かったようです。さらには元北条村長、寒香庵木村重義が集めた茶器600点(木村茶道美術館)。
正法寺松田政秀の大久保焼、藍染布の収集(同一庵藍民芸館)があります。

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 紙雑貨商岩下庄司が収集した全国の郷土玩具海外の民族品の総数は5万点。その大部分は戦前のものであり、質・量ともに日本屈指といわれています。野村胡堂、巌谷小波、渋沢敬三等も同好の士です。すべて自分の目と足で集めたこれらの玩具を持ち帰る時、一番の心配は背中いっぱいにしょった風呂敷づつみが、駅の改札口を通れるかということだったと、後年語っていました。痴娯の家という館名は童話作家巌谷小波の命名で稚児の家の転化です。
(痴娯の家)

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 呉服商だった吉田太郎の幕末開港資料は本家横浜、下田をしのぐといわれています。「黒船は宝船だった」。という彼は当時の社会の混乱をあらわした瓦版・錦絵・版画等を集め、庶民の見た時代の一端をあきらかにしました。
(黒船館)

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 市文化財審議会委員長でもあった松田政秀は、庶民生活を支える日用雑器が、産業経済の波にのり急激に変わってゆく様を見て、古くて丈夫で美しいものにとらわれ、衣服が化織になれば古い木綿を集めて筒描の美しさに感嘆し、色絵茶碗が出れば古来の藍の茶碗に愛着を感じました。人々の生活をいろどった身近な品々のなかに美を見つけました。(同一庵藍民芸館)

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 平田誠二郎も呉服商でした。自らも漆器を作り日展にも入選しています。兄内田宗寛は著名な蒔絵師でした。
(非公開)

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 元鍛冶屋・古道具商の内山松次郎の古銭は和同開珎依来の日本の紙幣はもちろん、古今東西のそれを網羅していました。「ただ、今通用するお金はない」と彼は嘆いていたそうです。彼の死後惜しくも散逸してしまいました。

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 桑山太市朗は洋画材料商、元郵便局長。古人の書・手紙・古書籍を集めましたが、彼自身は民芸・民俗研究化で「日本民俗芸能史」を著わし阿国歌舞伎をそのまま伝えるという鵜川の「綾子舞」を広く世に知らしめました」
(戯魚堂文庫・市立図書館蔵)

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 9万7224枚の絵葉書を残した小竹忠三郎は元縮商で、石油会社勤務でした。全国津々浦々の郵便局へ絵葉書と切手代を送り、同封した手紙に「御地の絵葉書どんなものでもかまわないから送れ」と書いて集めたそうです。大火で自宅が全焼したとき、焼け残った印刷所に「大火の絵葉書はできたか」と聞きました。(一部は市立博物館蔵)

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 元呉服商で質屋を営んだ新道屋曽田市蔵が収集した大黒天は260体。東京で関東大震災にわったとき、大黒様に救われました。(米山大黒亭)これらの施設は柏崎の特異な一面と文化の奥行きの深さを見せています。

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 なぜ多くのコレクターがほとんど時期を同じくして出現したのか。それはだれにもわかりません。
ある人いわく「江戸時代縮布行商で柏崎商人の他国出張が多く、江戸や京阪での見聞を広める機会に恵まれた」又いわく。「北前船の寄港地で上方の文物、文化が伝えられた」等々。

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 柏崎は近世武家社会成立以降、高田藩、白河藩、桑名藩と領主は変わりましたが、城下町でなかったため陣屋の間接支配地でした。

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 武士が少なく町人(商人)が町の運営に参加していました。陣屋の機構も時代を経るにしたがい財政(年貢徴収)に偏り、民政は大商人達に肩代わりさせ、この大庄屋や大肝煎の町年寄は地方(じかた)役人となって、陣屋役人とともに町政にあたりました。しかしこれらの大商人達は明治維新を迎えて、体制の変化によりほとんどが没落します。武士階級と特権商人達がいなくなり、頭上の重しがとれたように、新興商人達が自由な活動を始めます。文明開化の風潮も地方に広まってきたことでしょう。

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 明治時代半ば、刈羽郡石地村の内藤久寛は日本石油を興し、明治32年(1899)日石本社を大洲村大久保(柏崎市大久保)に移しました。それは前々年の明治30年に北越鉄道が高田春日新田、柏崎間に開通し、柏崎が再び交通の要衝になったのと、刈羽西山油田の盛況により西光寺下の鵜川河岸に、当時我国最大日産三千石の大製油所が建設されたためでした。長岡東山油田を持つ宝田石油が柏崎駅前(旧日石加工)に製油所を設置するに及んで、全国一、二位を争う二大石油会社が柏崎操業を開始し、中央から来た多くの技術者達が柏崎に新しいいぶきをもたらし町に活気が出てきました。こうした町の勢いが、幾多のコレクターを生んだのかもしれません。